おかだ直樹物語

おかだ直樹物語(第5回)

◇ 野党おかだ直樹 新たなる挑戦の時

この間、岡田直樹は北陸新幹線や能越道の建設促進、加賀飛騨道路のルート絞り込みなど郷土の発展に精力を注いだ。

平成二十一年八月三十日、自民党は衆院選に敗れて野に下ることに。

しかし、ふるさと石川のための事業は、与野党を超えた国会議員の責務であり、岡田直樹は更なる情熱を燃やして北陸新幹線の関西までの延伸を訴えている。

現政権下で行き詰まっている普天間基地の移設を早期に進め、沖縄の負担を少しでも軽減し、日米関係も改善しなければならない。

「鳩山不況」が懸念される中で地方重視の景気対策を政府に迫る役割もある。

小沢一郎民主党幹事長に権力が集中する異様な構造にもメスを入れる必要がある。

平成二十二年、岡田直樹の新たなる挑戦が始まる。

おかだ直樹物語(第4回)

◇おかだ直樹 参院選で初陣飾る~国土交通大臣政務官に

県議会を離れて一年余り、石川県をくまなく歩いた岡田直樹は平成十六年七月十一日、参院選で初陣を飾った。

苦労のかいあって相手候補に十万票差をつける勝利だった。

それから岡田直樹は水を得た魚のように生き生きと働いた。自由民主党の新憲法草案策定に際しては、中曽根康弘元首相のもとで前文案の下書きをした。

平成十七年夏、自民党が圧勝した総選挙では小泉純一郎首相の遊説隊長という大役も務めた。

平成十九年の参院選で自民党が敗れ、衆参ねじれ国会になると、岡田直樹は参院議院運営委員会理事と国会対策副委員長を兼任し、荒れる国会の正常化に奔走した。

二十年八月には国土交通大臣政務官の要職を担った。

時あたかも、東アフリカのソマリア沖・アデン湾に海賊が出没し、日本はじめ世界各国の船舶を襲った。国交省で海上保安庁も担当する岡田直樹は、海賊対処新法の国会審議を担当し、その成立に貢献した。日本の船がソマリア沖-アデン湾-スエズ運河を通れなければ、日本経済や国民生活の受ける打撃は計り知れない。

岡田直樹は国会答弁でタンカを切った。

「いま海賊に脅かされてアフリカ南端喜望峰に回るなら、それはスエズ運河が開通した百四十年前に人類の歴史を逆戻りすることだ!」

法案成立後、岡田直樹は海賊対策の根拠地となっているソマリアの隣国ジブチを訪問し、酷暑の中で頑張っている海上自衛隊員や海上保安官を激励した。

日本を離れること一万二千キロ。ふるさとでは隊員の子が三人生まれたという隊員はこう語った。

「任務を果たして国に帰り、赤ん坊を抱きしめたいです」

純真な隊員の言葉に目頭を熱くする岡田直樹だった。

おかだ直樹物語(第3回)

◇県議おかだ直樹 再びいばらの道へ

 北朝鮮に行った二年後、岡田直樹は十二年勤めた新聞記者を辞め、無職になった。ハローワークを訪ねたのはその直後のことだ。それから二年近く、先の見通しのないまま、物を書いたり多くの人々の厚意で食いつなぎ、若い仲間たちと国づくり、街づくりを語り合った。

 その時、石川県議会の大ベテラン米沢外秋氏が逝去したことは一つの運命だった。その後継を決める補欠選挙に岡田直樹は名乗りを上げた。平成十四年三月、初当選。残り任期は一年だったが、四回の県議会ですべて質問し、とりわけ石川県がさるゴルフ場に隣接する土地を法外な高値で買い取ったことを追及した質問は大胆不敵で新人離れしたものと評された。

 ところが、二度目の県議選を目の前にして次期参院選に出馬せよという声が上がる。ようやくつかんだ議席を投げ出して、またもや一年余り浪人生活を送らねばならないのか。

 ちょうどそのとき、記者時代に密着取材した松井秀喜選手が巨人の四番の座を捨ててメジャーリーグに挑戦しようとしていた。

「自分はまた給料なくなるな。同じチャレンジャーでも松井選手は大変な高給取りや。少し貸してもらえんかな?」

 岡田直樹は再度浪人のいばらの道を選んだ。

おかだ直樹物語(第2回)

◇  記者おかだ直樹 北朝鮮で政治に志

岡田直樹は昭和三十七年六月九日、金沢市生まれ。赤ん坊のころ「吉田茂に似ている」という人がいたそうだが、それは吉田茂が赤ん坊のような顔をしていたということではなかろうか。赤ん坊はすくすく育ち、やがて身長一八八センチの大男になる。

子どもの時から歴史小説が大好きで、吉川英治「三国志」を読んでは中国大陸に思いをはせ、いま話題の司馬遼太郎「坂の上の雲」を読んでは明治の青春群像に胸を躍らせた。大学では中国哲学や憲法、政治学などを学ぶ。崩御した昭和天皇をののしった左翼の教授と大げんかして卒業延期となる武勇伝を残し、ふるさと石川に帰り新聞記者となった。記者として大河ドラマ「利家とまつ」の誘致にも一役買い、「願えばかなう何事も」と自信もついた。

大きな転機は「平成岸壁の母」という歌謡曲のようなタイトルの連載だった。石川県志賀町出身の寺越武志さんが昭和三十八年、日本海で行方不明になった事件を追っていた岡田直樹は平成九年、十年の二回、北朝鮮に渡航取材し、武志さんとも面会した。当時、北朝鮮は日本人拉致を一切認めていなかったが、岡田直樹は拉致の存在を確信した。同時に金正日を頂点とする軍事独裁体制のもとで自由を奪われ悲惨な生活を強いられている北朝鮮の人たちを垣間見て、正真正銘、男の涙がほほを伝った。いつの日か拉致問題を解決し、日朝関係を正常化し、両国民を救いたい―こんな大それた望みを抱いた。時に三十五歳、岡田直樹が政治に志した瞬間であった。

おかだ直樹物語(第1回)

◇政治家への道

 十年前の平成十二年のことである。金沢市内のハローワークの窓口で雇用保険を申請しようとしている男がいた。勤めていた新聞社を辞めて無収入になった岡田直樹だったが、担当者から「どんな再就職を希望するの?」と聞かれて途方に暮れた。

 求職票に「国会議員」と書くわけにもいかず、適当な職種を書いて雇用保険を受け取る手もあったが、それは不正のように思えたのだ。考えあぐねた末に岡田直樹は「保険は要りません。本当は政治家になりたいんだから」と言ってハローワークを飛び出した。

 それから二年近く、いったん石川県議会に入るまでの間、物を書いたり、多くの人々のご好意で食いつないだ。言わば「自発的失業者」だったから、本当の失業者とは訳が違う。だが、定収も貯金もない切なさは忘れられない。

 いまハローワークは職を求める人であふれている。その気持ちが鳩山由紀夫首相に伝わっているだろうか。母親から巨額の政治資金を受け取ったと聞いては、「国民目線」「生活者重視」のスローガンも空々しい。

 旧年、わが石川県も建設会社の破綻や百貨店の縮小、ビール工場の撤退と暗いニュースが相次いだ。親が失業したら、子ども手当が入っても子育てはできない。今は景気と雇用が最優先だ。絵に描いた餅のマニフェストに縛られず、有効で大胆な景気対策を打つよう政府の尻をたたくことが必要だ。

 さて、そんな思いを抱いている岡田直樹はどんな道を歩いてきて、なぜ政治家に志したのか。これから「おかだ直樹物語」をつづっていく。