岡田直樹物語

もう十六年も前の平成十二年のことである。金沢市内のハローワークの窓口で失業保険(雇用保険)を申請しようとしている男がいた。勤めていた新聞社を辞めて無収入になった岡田直樹だが、担当者から「どんな再就職を希望するの?」と聞かれて途方に暮れた。

ハローワーク飛び出す

まさか「国会議員」と答えるわけにもいかず、適当な職種を答えて失業保険を受け取るという手はあっただろうが、それは不正なことのように思えた。考えあぐねた岡田直樹は「保険は要りません…本当は政治家になりたいのだから!」と言ってハローワークを飛び出した。
もともと教師になろうと大学では中国哲学というユニークな学科を選んだが、そのうち報道に関心が芽生えて法律や政治学も学び、故郷の石川県に帰って充実した新聞記者生活を送っていた。しかし、北朝鮮に渡って拉致問題を取材したことがきっかけで、自分の手で被害者を助けたいと思うようになる。日本海を隔てて軍事独裁体制(金正日時代)の国があることにもショックを受けた。
こうして政治の道を志した岡田直樹はそれから二年近くの辛い浪人生活を経て、いったん石川県議会の補欠選挙に当選、残り任期一年を務めたところで新たに参院選にチャレンジすることを決意。県議を辞めて、またもや一年余り浪人したあと平成十六年七月に参院初当選を果たしたのであった。

景気と暮らしを最優先に

ハローワークの前を通りかかるたびに政治の道を志した時の初心を思い出す。今は民進党と看板の変わった民主党が政権を取った時代、経済は落ち込み、失業率は高く、ハローワークは働く場所のない人たちでいっぱいだった。そのころ、わが石川県も建設会社の倒産や百貨店の縮小、ビール工場の撤退など暗いニュースが相次いだ。親が失業したら、子ども手当が入っても子育てはできなかったのだ。
いま自民、公明連立政権に戻って三年半、安倍首相の経済政策のもとで求人はぐっと増え、失業率は下がった。賃金も上がり始めている。全国どこでも景気が良くなり暮らしが良くなったと実感できることが大切だ。今回、消費税の引き上げを先送りしたのは、民主党時代のデフレ不況に逆戻りせず、日本経済をさらに力強く押し上げるという大きな決断だった。

野党の苦難超え北陸新幹線開業

参議院に入った岡田直樹は国土交通大臣政務官も務め、ソマリア沖アデン湾に出没する海賊に対処する新法の成立に尽力した。北陸新幹線や能越道の建設促進、加賀飛騨道路のルート絞り込みなど郷土の発展にも精力を注いだ。
ところが、平成二十一年八月三十日、民主党に政権交代。自民党は野党に転落した。目の前が暗くなり、頭がガーンと鳴る思いで、岡田直樹も苦難に耐える日々が続いたが、多くの人々と対話しながら政策を練り、平成二十二年、二度目の参議院選挙で再選を果たした。東日本大震災では与野党を超えた国会運営で復興予算の早期成立に力を尽くした。そして石の上にも三年余り、政権復帰の時を迎えたのである。
去年三月十四日、情熱を注いできた北陸新幹線の金沢開業の日を迎え、岡田直樹は体が震えるほどの感激を味わった。金沢から能登にも加賀にも新幹線効果を広めていくことと、北陸新幹線の関西までの延伸、完成をライフワークと考えている。

世界平和と日本の安全のために

五月のサミット終了後、オバマ米国大統領は被爆地広島を訪ね、慰霊碑に花を捧げて原爆による犠牲者に祈りをささげた。安定した政権基盤に立って積極的な「地球儀外交」を展開し、世界の首脳と会談を重ね、特に民主党政権のもとで破壊された日米関係を立て直した安倍政権の上げた歴史的な成果だ。「核兵器の廃絶を!」。オバマ氏の演説に胸を打たれた日本人は改めて世界平和の思いをかみしめた。世界が平和でなければアジアも日本も平和ではあり得ない。政界入りのきっかけになった北朝鮮がミサイル発射や核実験を繰り返していることは大きな不安材料だ。外交努力を尽くして核兵器の開発をやめさせるとともに、万一の場合、友好国とともに国民のいのちを守る備えは怠れない。それが政府、与党の責任というものなのだ。

世代を超えて安心な生活を

去年十月、岡田直樹は財務副大臣の重責を担って政府の一員となった。強い経済をつくるなかで財政も健全化し、子育て支援に力を入れて人口減少に歯止めをかけ、子や孫の代まで持つような医療、年金など社会保障の仕組みを設計しなければならない。
新幹線開業をチャンスに東京や太平洋側からの企業誘致に力を注ぎ、もっと石川に働く場所を増やしたい。若い世代が経済力をつけて家庭を持ち、安心して子どもを育ててほしい。「ふるさとで暮らせる国に」。岡田直樹の挑戦は続く。